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ドナー(donor)
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仏教信者の最も大事な心がけは布施です。布施を梵語でダーナといいます。中国では旦那とか檀那という言葉になりました。ちゃんと施主(といってもお布施をいくらにしようかなと考える程度ではなく、お寺を建ててあげようかなというくらい)ができる人のことで、王侯貴族や大商人を指しました。日本では江戸時代に、必ずどこかの寺に属するようにとの御触れが出て、一家の長がみな檀那となり、日本中のオヤジが旦那になりました。このダーナは西欧に伝わって寄付者を意味するドナーとなり、教会や慈善団体への寄付行為をドネイションといいました。とくに近年の心臓移植によって、いわば命を直接贈る行為ということで、慈善の意味を持つドナーという言葉が有名になりました。
日本でも心臓移植のとき、お医者さんが殺人罪に問われないように、臓器移植法によって脳死が死と決定されました。数千年の死の概念を覆すこの重大な諮問会議に、一番死に関わり合ってきた宗教者は一人も選ばれず、庶民感情も宗教的考察も排除して脳死法が成立しました。
日本人の死は4000年以上も呼吸停止であり、心停止でした。しかも、死んで荒ぶる魂(荒霊)となり、弔い、供養を受け白骨化して仏(和魂)になるのです。この時死体を傷つけると仏にならないとされたので、極刑さらし首でした。そこに突然「死んで無駄になる臓器なら、ちょっと死期を早めて役に立てればいい」と、まだ心臓が動き、温かくても死んだと医者が判定するようになりました。死が初めて、功利的な観点から動かされてしまいました。
欧米では2000年のキリスト教の教えで、人間としての思考を失ったら物、また動物という考えが浸透しています。脳死によって二度と人間性が戻らないとき、人は死んだと諦められます。それで、天国へ召される最後の儀式を息のあるうちにするため、病院内に牧師をおくほどです。それでも切り刻んだ遺体は、きれいに修復されてお別れいたします。
日本では、葬式をして、僧が引導を渡して初めて死でした。この意識はなかなか変わらずに、ドナーの提供者は少しも増えていないようです。
小生は、日本人としての永い歴史感は尊重すべきであると思います。地球上には様々な人種・宗教があります。それらを無理やり合わせようとすれば、必ず歪みやひずみが生じ、争いが生まれます。違いを認め合うことが本当の平等なのではないでしょうか。
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| 文中の写真は「春の兆し」と「境内の霜柱」 |
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